スタートは3Dの技術開発
その経験が今の自分を作った
入社して最初の配属は3Dモニターの研究開発でした。新入社員研修で3Dの技術に興味を持ったのがきっかけで、配属希望を出しました。後から聞いたのですが、本当はその年は3Dには配属予定がなかったらしいのですが、熱意が伝わったようです!一年目はきつかったなというのが正直な感想です。というのも先輩たちがものすごく体を動かすのです。研究開発って、試験管やフラスコ振ってるイメージじゃないですか。でもみんな走り回ってる。現場に行って、問題が発生していれば自分で調べる。実際に作ってみる。お客さんの声を直接聞きに行く。自分で設計して、検査して、出荷までする。全部自分でやっちゃうんです。誰も席に座ってない。もちろんフラスコも振っていない(笑)一から全部自分でプロデュースしちゃう姿が本当にかっこいいなって思いました。それにみんな声がでかい。上司の指示なんて誰も待っていなくて、どんどん良いと思ったことは発言して、動いちゃう。それもすごく前向きに。一年目にこうした先輩たちの背中をみて育ててもらえたことが今の自分を作っていると感じます。
現地でのトラブルを経験
顧客の近くで仕事をしたい
たくさん海外出張に行ったことで、海外勤務を意識するようになりました。現在の複合材料の技術部門に配属されてからは、中国やフランスなど、色々なところに出張に行きました。中でも印象的だったのはインドネシアへの出張でした。国営の火力発電所に納めたベッセル(水処理圧力パイプ)から水漏れが発生したのです。水が作れないとタービンを回すために必要な蒸気が作れず、発電できない。結果としてインドネシア半島の大部分に電気を供給できないという問題が起こったのです。スペインの工場が出荷した製品だったのですが、日本からは私が問題解決のために派遣されました。国営の発電所なので、セキュリティがとにかく厳しく、ライフルを持っているような人に監視されながらの現場調査でした。現場はとにかく緊迫していました。「住民に電気を供給できない。どうしてくれるんだ?」と。がむしゃらでした。現地の作業員と一緒に、文字通り寝る暇もなく復旧に努めました。何とか原因を突き止めて、日本から必要な物資を送ってもらって、水漏れを実際に止めたときには、現地の人の顔が一気に変わった。敵から味方に変わったと言ったら言い過ぎかもしれないけど、一緒にご飯に行こうと誘われたりして、仲間として認められたと感じる瞬間がありました。この出張を機に、将来は実際に製造する現場、ベッセルを使用するお客様の近くで仕事をしてみたいと、海外で働くことを強く意識し始めました。
発言しなければ存在しないのと一緒
海外での勤務経験を伝えていきたい
希望が叶い、実際にアメリカの工場に赴任が決まりました。一番苦労したのは、やはり語学です。最初は「まともに英語も話せない面倒くさい奴が来たな」と思われていたと思います。それをどうやって克服するのか。答えは一つです。結局、語学力を上げるしかないのです。働きながら英会話学校に通ったりもしました。また、渡米して一番強く感じたのは、自己主張の大切さです。英語が苦手なのは関係ない。間違っていてもいい。とにかく自分の思っていることをちゃんと発言して伝えなければ、存在しないのと一緒。何を考えているのかわからない奴が一番下に見られるし、存在価値が無いと思われてしまうのです。こうした文化の違いを肌で感じました。だから私は会議では必ず発言するように常に意識しています。このおよそ5年間という海外での経験は本当にプライスレスで、言いようがないくらい素晴らしい経験でした。だから若い後輩たちには、どんどん海外に出て挑戦して欲しいと伝えていきたいと思います。
オフの
1コマ
米国時代の自宅は、なんとエンゼルスタジアムまでクルマで1時間の距離。もちろん大谷翔平選手を家族で何度も観に行きました。スタジアムには「OHTANI」のユニフォームがあふれていて、大谷選手がバッターボックスに立つだけで球場全体が揺れるほど。そうそう、パドレスのダルビッシュ選手と大谷選手の直接対決もこの目で観ることができました。